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SDGsとは


持続可能な開発目標(SDGs)とは,2001年に策定されたミレニアム開発目標(MDGs)の後継として,2015年9月の国連サミットで採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」にて記載された2016年から2030年までの国際目標です。

持続可能な世界を実現するための17のゴール・169のターゲットから構成され,地球上の誰一人として取り残さない(leave no one behind)ことを誓っています。

スポーツとSDGsの関係

SDGsを達成していくためには、スポーツが重要な役割を担っており、社会の進歩に果たす役割に関しても、国連は「スポーツは持続可能な開発における重要な鍵となるものである」「平和への寄与、健康・教育への貢献、女性や若者・個人やコミュニティの能力強化に寄与する」とスポーツが世界的な課題に取り組んでいくためには、必要不可欠なツールであるとされています。


パフォーム49とSDGsの関連付け


当社はSDGsの17の目標に対して賛同します。

また、当社が運営するサイト「Performers’ Search」の想いである「日本のスポーツを盛り上げたい」「スポーツを通じて世の中に貢献したい」を実現していくことで、以下のSDGsの各目標に貢献することを当社の重要課題(マテリアリティ)ととらえております。

  • トップアスリートによる各種スポーツ教室の開催により、子供たちへ心身ともに成長する機会を与え、健康の増進と福祉に貢献していきます。

  • プロスポーツ選手、元プロスポーツ選手を講師に招くことで、参加者のスキルや課題に合わせた質の高い教育を提供します。

  • トップアスリートによるスポーツ教室や講演依頼を通じ、スポーツというフィールドで、あらゆる面で差別なく、スキルを高められる環境を整備します。

  • プロスポーツ選手引退後の一般企業での就業や、出版などのサポートを行い、プロスポーツ選手にとって働き甲斐のあるセカンドキャリア形成に向けて、力添えを行います。

「地方創生SDGs官民連携プラットフォーム」に加入しました

2021年8月、当社は日本政府の内閣府・地方創生推進事務局が設置している「地方創生SDGs官民連携プラットフォーム」に加入しました。今後はプラットフォームの会員として、日本の地方創生のために積極的に貢献して参ります。

※地方創生SDGsについては、内閣府 地方創生推進事務局のホームページをご覧ください。



オールスターにも出場した、2年連続ゴールデングラブ賞受賞の名手

プロフィール

茨城県立日立工業高校、東京ガスを経て、1995年のドラフト会議で西武ライオンズから2位指名を受けて入団。
1年目から一軍に出場し、1998年と1999年には2年連続で外野手のゴールデングラブ賞を受賞した。
引退後は、野球解説者・評論家や野球教室の講師を務める。



経歴


1974年:6月18日、茨城県多賀郡十王町(現・日立市)に生まれる
1991年:茨城県立日立工業高校時代に関東大会に出場
1995年:東京ガスからドラフト会議で西武ライオンズから2位指名を受ける
1996年:後半戦から一軍に昇格し、62試合に出場
1997年:2番打者として、リーグ優勝に貢献
1998年:1番打者として活躍、ゴールデングラブ賞を受賞
1999年:オールスターゲームに出場、第1戦でランニングホームランを打つ。二年連続でゴールデングラブ賞を受賞
2004年:シーズン終了後に中日ドラゴンズへトレード移籍
2005年:シーズン終了後、現役を引退
2006年:テレ玉の野球解説者、東京スポーツ野球評論家を務める
2009年:NPB12球団ジュニアトーナメントで西武ライオンズジュニアのコーチを務める

通算成績

10年(実働9年)、662試合、打率.263(2005打数528安打)、18本塁打、155打点、80盗塁

獲得タイトル

ゴールデングラブ賞(外野手):1998年、1999年
オールスターゲーム出場:1999年


逸話やエピソード

茨城県立日立工業高校では、1年生夏からセンターとピッチャーを兼任する。因みにピッチャー時はサイドスローであった。
2年生秋は県大会で準優勝し、関東大会でベスト8、3年生の夏は甲子園出場の有力校となったが、県大会は残念ながら準優勝に終わり、あと一歩の所で甲子園出場はならなかった。
また、双子の弟(猛さん)がいて、茨城県立日立工業高校でも一緒にプレーしている。

元々、左バッターだったが、西武ライオンズ入団後の3年目(1998年)の春季キャンプでは、スイッチヒッターに挑戦するなど器用な面も持ち合わせている。

守備に関しては、1998年、1999年と2年連続でゴールデングラブ賞を獲得するほどの名手である。当時の西武ライオンズ投手だった豊田清氏は、大友の守備にはとても敬意を払っており、豊田のリリーフ登板時の代名詞であるセンターから順に外野陣に帽子に手を添えて挨拶する仕草もここから来ているといわれている。

守備に目が行きがちだが、打の方で印象に残っているシーンは、1999年に選出されたオールスターゲームでは、第1戦でオールスター史上4人目となるランニングホームランを打っている。
また、オープン戦ではあるが、2002年には千葉ロッテマリーンズ戦で3打席連続本塁打という記録も持っている。

プロ野球を引退した後は、テレビ埼玉の野球解説者、東京スポーツの野球評論家として活躍する一方で、プロゴルファーに挑戦すべく、ゴルフ場に就職などもしいる。
ゴルフ場に2年勤務はしたが、野球への想いは強く、西武時代の先輩・大塚光二氏に誘われ、一球幸魂(さいたま)倶楽部の選手兼任コーチに就任する。
さらに、西武ライオンズ主催の野球教室や日本プロ野球OBクラブ主催の野球教室などでの講師や、NPB12球団ジュニアトーナメントでの、西武ライオンズジュニアのコーチを務めるなどの活動や、解説業やベースボールアカデミーなどにおいての講師など、野球界の発展に向けて精力的に活動を続けている。


メジャーリーグにも挑戦した、千葉ロッテマリーンズのトレーナー


佐々木 順一

プロフィール

高校2年生から投手となり、社会人野球チームを経て、メジャーリーグに挑戦し、エクスポズとマイナー契約を結んだ。
引退後は、アスリートをサポートする道としてトレーナーを選び、現在は、千葉ロッテマリーンズのトレーナーとして活躍。
トレーナーとしては、「当事者意識に立つ事」や「相手の立場に立つ事」を大切にしている。



経歴


1974年生まれ。
1996年5月にメジャーリーグ・エクスポズとマイナー契約を結ぶ。
1997年に引退後、鍼灸の専門学校に入り、国家資格を取得し、株式会社ルートヴィガーでスポーツトレーナーとして勤務する。
その後、千葉ロッテマリーンズのトレーナーとして活躍。



逸話やエピソード

子供の頃から野球をはじめ、中学生時代は4番を打っていた。
千葉県立一宮商業高校2年生の時に内野手から投手に転向する。
高校卒業後、社会人野球チームに進むが2年目の秋に休部となってしまう。
その後、「実力勝負のアメリカで、野球の頂点に挑戦したい」という熱い想いからアメリカに渡る。
フロリダ州にあるプレーボール・ベースボール・アカデミー(エクスポズ系列)で約3か月間の練習を積んだのち、トライアウトに合格し、1996年5月にエクスポズとマイナー契約を結び、ドミニカ共和国のキャンプに参加、サマーリーグでプレーする。
しかし、翌年に選手生活を引退した。
選手引退後は、「自分は米球界に挑戦したが、今度はアスリートをサポートしたい」と思うようになり鍼灸の専門学校に入学。国家資格を取得し、株式会社ルートヴィガーでスポーツトレーナーとして勤務した。
さらに、千葉ロッテマリーンズのトレーナーとなる。

トレーナーとして大切に思うことは

まずは、何事も一生懸命にやり、何事も自分と関連付けることを大切にしている。
「自分が関わっているという当事者意識を持つことにより、話の聞き方や物事の捉え方が変わり、意欲的に行動でき、相手への思いやりにつながる」とのこと。
また、球団のトレーナーとしては「選手、監督・コーチ、ドクターなどの各立場間の架け橋」となる事が求められ、それぞれの立場になって応対する事を心掛けている。


ノーヒットノーランも達成した、セ・リーグ有数の左腕投手


野口 茂樹

プロフィール

野口茂樹氏は、1974年5月13日に愛媛県で生まれる。
中学・高校と県大会で優勝経験があり、愛媛県立丹原高校時代は、「四国のドクターK」とも呼ばれた。
1992年に中日ドラゴンズからドラフト3位指名を受けて入団。入団2年目で一軍初登板し、4年目の1996年にノーヒットノーランを達成する。
最優秀防御率、最多奪三振、ゴールデングラブ賞のタイトルを獲得したほか、リーグ優勝した1999年には最優秀選手にも選ばれた。

FA権を行使し読売ジャイアンツに移籍するも、出場機会を伸ばせず退団。
それでも野球を諦められず、リハビリを経て四国アイランドリーグplusの三重スリーアローズでプレーする。
現在は会社員や少年野球スクールの講師(中日ドラゴンズ主催)を務めている。



経歴


1974年:5月13日、愛媛県東予市(現:西条市)で生まれる
1992年:中日ドラゴンズからドラフト3位指名を受ける
1994年:野球留学で1A・セントラルバレー・ロッキーズでプレー。帰国後の8月、2年目で一軍初登板を果たす
1996年:8月11日の読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)でノーヒットノーランを達成
1998年:チーム最多タイとなる14勝(9敗)を挙げる。最優秀防御率のタイトルを獲得
1999年:19勝7敗と活躍。リーグ優勝し、リーグMVP(最優秀選手)となった
2001年:最優秀防御率、最多奪三振のタイトルを獲得する。日本タイ記録となる4試合連続無四球完投勝利を挙げるなど、11完投、5完封、12勝9敗と活躍した
2005年:シーズンオフにFA権を行使し読売ジャイアンツに移籍
2007年:リリーフ中心に登板し、中日戦で移籍後初勝利を挙げる
2008年:読売ジャイアンツを退団。退団後は株式会社オーガニッククルーの顧問とFuture's Baseball Academyのアドバイザーを務める
2011年:5月に四国アイランドリーグplusの三重スリーアローズに入団。シーズン終了後、チーム解散に伴い退団、引退を決意する

通算成績

14年、281試合、1405 2/3投球回、81勝79敗2セーブ4ホールド、防御率3.69、1122奪三振

獲得タイトル

最優秀防御率:1998年、2001年
最多奪三振:2001年
最優秀選手:1999年
ゴールデングラブ賞:2001年
月間MVP:1999年7月、1999年9月、2001年4月、2001年5月
最優秀バッテリー賞:2001年(捕手は中村武志氏)
オールスターゲーム出場:1998年、1999年、2001年



野口 茂樹

逸話やエピソード

中学・高校時代に県大会で優勝経験あり

西条市立東予東中学校では、準々決勝から決勝まで3試合連続で完封し、3年生の時に愛媛中学総体で優勝する。高校は強豪校への進学はせず、愛媛県立丹原高校に入学し、2年生夏は、初戦から準々決勝の4試合で40奪三振と大会新記録を更新、チームをベスト8に導き、3回戦では当時の甲子園常連校である松山商業高校にも勝っている。3年生春は東予地区予選・新居浜南高校戦でノーヒットノーラン、県大会では、準決勝・八幡浜高校戦で19奪三振、決勝・新居浜東高校戦で14奪三振と活躍し優勝。しかし、3年生夏は県大会準決勝で敗退し、甲子園出場はならなかった。高校時代は、三振を奪っている姿から「四国のドクターK」とも呼ばれた。

プロ入りしてからは持ち味を活かせない時も多く、当時の星野監督は、「何かを感じてもらいたい」と厳しく接し、プロ4年目の1996年、オープン戦で結果を残せず降板した時は、試合終了までの2時間以上ベンチで立たされたことや、先発ローテーションで結果が出ない時は、二軍降格だけでなく丸刈りも命じられた。
そういった苦しい経験をし成長した野口は、1996年8月11日の読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)でノーヒットノーランを達成。その際の星野監督は「きょうは本当に嬉しい」と喜んでいた。

1997年は故障や制球難の影響で11試合の登板にとどまり0勝に終わる。
1998年に就任した宮田征典コーチ(現役時代は巨人に在籍、故人)から、腕の振りを斜めにするなどのアドバイスを受け、制球難が改善。14勝を挙げ、最優秀防御率も獲得する。
因みに、8月30日の対ヤクルトスワローズ戦では、延長12回まで203球を投げている。
1999年は19勝7敗の成績を残し、リーグ優勝に貢献し、リーグMVPの表彰も受けた。
しかし、この年のルーキー・上原浩治(当時・読売ジャイアンツ)が20勝し、最多勝とはならなかった。

2005年のシーズン終了後に中日の生え抜き選手では初となるFA権(国内)を行使し、読売ジャイアンツに移籍した。しかし、移籍翌年の登板は1試合で、移籍2年目に復活するも3年目は一軍登板なしに終わり、2008年に戦力外通告を受ける。
その後は、現役として道を国内、国外を含めて様々選択しながらも、なかなか安定したチームに恵まれず、しかし野球への愛情は冷めることなく、オーガニック関連のセミナーやオーガニック食品の販売を手掛ける株式会社オーガニッククルーの顧問を務めながらも、野球教室や野球留学のサポートを行うFuture's Baseball Academyのアドバイザーに就任。

そして、2011年には独立リーグ・三重に入団。シーズン終了後にチーム解散に伴い退団、引退を決意することとなる。
選手引退後は一般企業に勤務する中で、中日ドラゴンズ主催の少年野球スクールでの講師や野球解説おこなうなど、野球への情熱は今も冷めることなく持ち続けている。


日本シリーズで逆転本塁打を打つなど、勝負強いバッティングが売り。


副島 孔太

プロフィール

少年野球の日本代表に選ばれた経験があり、高校時代には甲子園出場、大学では全日本大学選手権優勝と数々の結果を残し、ヤクルトスワローズに入団。
勝負強いバッティングに定評があり、1年目から一軍に出場。2001年には日本シリーズ第4戦で決勝本塁打を打った。
その後、オリックスブルーウェーブでプレー。
プロ野球を自由契約となった後も、社会人チームやクラブチームで野球を続け、硬式野球チームの監督、学習塾のオーナーなども務めていた。



経歴


1974年:5月17日、東京都大田区で生まれる
1990年:桐蔭学園高校に入学
1991年:夏の甲子園に出場、3回戦進出
1992年:2年連続で夏の甲子園に出場
1993年:法政大学に入学
1995年:全日本大学選手権で優勝
1996年:ドラフト会議でヤクルトスワローズから5位指名される
1997年:主に代打や控えとして1年目から一軍に出場
1998年:プロ初本塁打を打ち、自身最多となる107試合に出場
2001年:日本シリーズ第4戦で決勝本塁打を打つ。日本一に貢献する
2002年:シーズン途中、戎信行投手とのトレードでオリックスブルーウェーブに移籍する
2004年:シーズン終了後、退団
2005年:クラブチームの茨城ゴールデンゴールズに入団し、兼任コーチとしてプレー
2007年:社会人野球のフェデックスに移籍
2008年:補強選手として都市対抗野球に出場
2010年:クラブチームの鉄腕硬式野球部に移籍し兼任ヘッドコーチに、居酒屋「鉄腕」にも勤務する
2011年:監督兼任となる
2012年:退団後、硬式野球チームBBCスカイホークスの監督、学習塾「名学館 元住吉校」のオーナーになる

通算成績

通算463試合、打率.255(915打数233安打)、21本塁打、106打点、11盗塁



副島 孔太

逸話やエピソード

少年野球チームの大田シニアでプレーし、日本代表に選ばれた。
ヤクルトスワローズ入団時の監督である野村克也氏がシニアリーグに携わっており、副島氏のプレーを見て実力も評価していたらしい。
桐蔭学園高校に進み、1年生からレギュラーとなる。2年生の夏(1991年)に甲子園に出場し、3回戦でホームランを打った。3年生の夏(1992年)にも2年連続で甲子園に出場。優勝候補の筆頭と注目を集めたが、延長戦の末、初戦で敗退する。
法政大学に進学し、3年生(1995年)の時に全日本大学選手権で優勝し、日本一となる。
大学通算本塁打は、11本だった。

プロ入り後は、バッティングに定評があり、主に代打や控えとしてではあったが、1年目から一軍に出場した。
2001年(5年目)の日本シリーズでは、第4戦で決勝本塁打を打つなど勝負強い打撃を見せている。また、守備に関しては、外野、一塁、三塁と複数ポジションをこなすユーティリティープレーヤーである。
プロ野球を引退してすぐ、設立者のタレント・萩本欽一氏が監督(当時)を務めるクラブチーム、茨城ゴールデンゴールズに入団、兼任コーチとしてプレー。

退団後は、社会人野球チームのフェデックス(長野県塩尻市)に移籍した。
2008年には、TDK千曲川の補強選手として都市対抗野球に出場する。
さらに、クラブチームの鉄腕硬式野球部で監督及び内野手を務めたのち、硬式野球チームBBCスカイホークスの監督に就任し高校生などを指導している。
2012年からは、BBCスカイホークスで監督を行う傍ら、学習塾「名学館 元住吉校」のオーナーになっている。学習塾では、生徒とのコミュニケーションを大切にしており、プロ野球観戦などを生徒と一緒にする事もある。


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