倉野 信次
「育成のホークスと言われる原点がここにある」
プロフィール
三重県出身の元プロ野球選手、現ソフトバンクホークスコーチ。
1996年に青山学院大学からドラフト4位で福岡ダイエーホークス(現在の福岡ソフトバンクホークス)に入団し、先発・中継ぎとしてマルチに活躍。2004年にはキャリアハイの成績を残し、ホークスのリーグ優勝に大きく貢献する。11年間にわたる選手生活を経て、2009年より同球団の2軍投手コーチ補佐として現場復帰。球団が3軍制度を導入したことに伴い、2011年シーズンからは3軍投手コーチに就任。
育成出身の千賀滉大を球界屈指のエースへ育てるなど、特に若手投手の指導・育成に定評がある。その後も2軍・1軍の投手コーチを歴任するなど、常勝軍団・ソフトバンクホークスに欠かせない存在として、首脳陣や選手、ファンから厚い信頼を寄せられている。
2021年シーズンをもって同球団からの退団を発表。
経歴
1974年、三重県度会郡小俣町(現・伊勢市)生まれ。小俣小学校、小俣中学校を経て、三重県立宇治山田高等学校へ進学。高校3年の夏には、全国高等学校野球選手権三重県大会で、母校の38年ぶりとなる準優勝に貢献する。その後、青山学院大学へ進学し、井口資仁(現千葉ロッテマリーンズ監督)、清水将海(同コーチ)らとともに黄金時代を築く。1995年(3年春)の 東都大学春季リーグでは「最優秀投手」「ベストナイン」に選ばれ、投手2冠を達成。
また、アトランタオリンピック予選を兼ねた「第18回アジア野球選手権大会」に日本代表として出場し、先発投手として2勝を挙げる。日本代表としては、同年にアメリカで行われた「第24回日米大学野球選手権大会」で敢闘賞を受賞。国際大学スポーツ連盟(FISU)主催「第18回夏季ユニバーシアード(福岡)」にも出場し、銅メダルを獲得する。
<ダイエー・ソフトバンク(選手)>
1996年 ドラフト4位で福岡ダイエーホークス入団。
1997年 ジュニアオールスター(現在のフレッシュオールスターゲーム)に出場し、MVPに輝く。
1998年 中継ぎとして38試合に登板し、プロ初勝利をマークする。
2001年 先発・中継ぎとして34試合に登板し、7勝を挙げる。
2004年 当時のパ・リーグ新記録となる7試合連続ホールドを達成。プレーオフの第4戦に先発登板し、勝利投手となる。
2007年 現役を引退。
<ソフトバンク(コーチ)>
2009年 2軍投手コーチ補佐に就任し、現場復帰。
2011年 3軍制度導入に伴い、3軍投手コーチに就任。
2015年 2軍投手コーチ(チーフ)に就任。
2016年 1軍投手総合巡回コーチに就任。
2017年 1軍投手統括コーチに就任。
2019年 1軍投手コーチに就任。
2020年 ファーム投手統括コーチに就任。
2021年 シーズン終了後に同球団からの退団を発表。
2022年 大リーグ・テキサス・レンジャーズ傘下のマイナーリーグでコーチ研修。
通算成績
通算164試合、19勝9敗1セーブ、防御率4.59、奪三振176
逸話やエピソード
2019年の「WBSC プレミア12」で俊足が光った周東佑京、日本シリーズで育成選手初となるMVPに輝いた甲斐拓也、育成出身の投手として初めてノーヒットノーランを達成した千賀滉大など、育成出身の活躍がめざましいソフトバンクホークス。
育成選手をはじめとする投手陣の飛躍においては、倉野の存在を欠かすことができない。3軍投手コーチだった2011年、当時育成1年目だった千賀を基礎から鍛え上げ、球速は150km/hを超えるまでに急成長(高校時代の最速は144km/h)。倉野の指導を受けた投手が大きく球速を上げること、そのめざましい躍進から、ファンの間では「魔改造」という言葉も使われるようになった。
指導にあたっては、選手それぞれの性格に合わせたコミュニケーションを大切にしており、活舌を良くするための教室に通っていたことも。「指導力」や「育成力」だけでなく「人間力」という部分も持ち合わせたコーチングが持ち味となっている。また自身の心の弱さを自覚し、グローブに「この一瞬に生きる」と書くなど、大きな精神的改革も実現。選手時代から心理学の書籍に触れ、コーチ就任後も各種講演会へ足を運ぶなど、勉強熱心なことで知られている。そして現在は、毎年オフに時間の許す限り、自身の経験を生かした講演活動を積極的に行なっており、これまでに30回程の実績を重ねるほどとなっている。